ふるさと栄会

寄稿記事

心の「原風景」

藤原 昇(栄中学校第9期、昭和31年卒)


  過去の「ある日」へちょっと行ってみたい、と思うことがある。そこにはその頃の家族や幼な友達がいる。風景も昔のままである。しかし、昔育った「場所」への移動はできるが、「時間」を移動させることはできない。過去の「時間と空間」は心の「原風景」として今の私に残っているだけである。

   方言が消えてゆくように、忘れ去られてしまいそうな子供の頃の「生活」を振り返ってみよう。私たちは終戦の2年後(昭和22年)に小学校に入学した。混乱期の最中であったが学校の教育制度は新しく、国語の教科書は戦後初めて印刷された2色刷りだったと記憶している。その頃、戦禍を逃れて多くの家族が田舎へと疎開していた。外地から引き揚げた家族も多かったように記憶している。「どん底」からの出発だった日本は年を重ねる毎に豊かな社会になって行った。私たちはその社会とともに年を重ねてきた。

   さて奥羽山脈を挟んで西に横手市、東に北上市が位置する。西南の空には鳥海山を望める。横手周辺は約千年前、八幡太郎義家(源義家)が清原氏を討った「後三年の役」で知られる場所である。さらに遡ること数千年、最近の「山内丸山遺跡」の調査で明らかになったことであるが、秋田、青森、岩手は、山や川を神として崇める「縄文文化」の栄えた土地であったという。

   横手市の東、奥羽山脈の岩手側に秘湯で知られる夏油(げと)温泉郷がある。三年ほど前の夏、半世紀ぶりにここを訪れた。今は車で簡単に行くことができるが、子供の頃は、麓の村里から4里ほどの山道を登って行った。この温泉郷は今も「秘湯」として昔の面影を残していた。ここでは時間がゆったりと流れ、ふっと半世紀前の世界に戻ったように感じた。

時間を遡って

  今の時代は「物と情報」が溢れ、地方も都市も同じ文化の中にある。田舎で育った私の子供の頃とは大分様子が違った社会である。何が違うのだろうか。戦後の社会がどうにか落ち着いた1950年代前半(小学校高学年から中学生になった頃)に時間を戻してみよう。そして、その頃の田舎の一年間の平均的な生活を、「食住」を中心に辿ってみよう。この頃は、農地改革、学制の改革、それに「新生活運動」などがあったが、昔から続いた生活様式が色濃く残っていた。舞台は横手町(現、横手市)の隣、栄村大屋寺内である。地名のように近くに寺があり鐘の音が時を知らせていた。生活用水、農業用水は、井戸水と奥羽山脈から注がれる沢の水であった。

   横手盆地は四方を山に囲まれ、海には接していない。冷蔵庫はまだなく、海鮮魚はほとんどが塩漬けであった。冬は「塩鮭」、春は「にしん(「かど」と呼んでいた)」、秋は「秋刀魚」と季節の魚にきまっていた。当時“にしん”の「数の子」は抜き取らずに売られており、子供達の大好物でよく奪い合ったものだった。魚以外の食糧は味噌、醤油、野菜、果物を含めて村全体としてはほぼ自給できていたように思う。

   当時、米はどのようにして作られていたのだろうか。米作りには「肥料」と「水」が欠かせない。秋、稲を脱穀した後に残る「藁」を積み上げ、その上に馬小屋に敷いていた藁を重ね、馬の糞尿を混ぜる。冬には発酵して湯気が立ち上っていた。こうして作られた堆肥を雪のあるうちにソリで田圃に運ぶ。ゴミとして捨てるものは無く総べて循環させていた。水は沢の水を貯めた大屋沼から引かれていた。この大屋沼は農林省の事業として拡張工事が行われ周辺の村の水田を潤した。小学校4~5年生の頃のことであった。

   雛祭りも過ぎ、雪が消える4月半ば、待ちかねていたように蕗のとうが顔を出し、わずか二週間程で白の世界から一面緑の世界に変わる。この頃から田を耕す仕事が始まる。馬は大事な動力であった。村には鍛冶屋があり、馬蹄、農具、鍋釜などの金物は鍛冶屋で作ったり修理したりしていた。高校生の頃から馬が減り始め、あっというまにその姿を消した。耕運機が馬に代わったのである。

   五月五日の「子供の日」の頃は桜が満開となる。この日は小学校、中学校合同の運動会である。重箱とお酒を持って家族総出で応援にやってくる。花見を兼ねた村のお祭りのようなものであった。6月に入ると田植えが始まる。この頃は農繁期で学校は1週間ほど休みになった。女の子は子守り、男の子は苗運びを手伝う。子供達も仕事の一端を担ったのである。お盆の頃は田の除草をしながら稲の成長を待つ時期である。お盆には、先祖の霊が迷わず家に戻れるように、夕方、それぞれの家で「迎え火」を焚いた。

   北国の秋は早い。稲刈り、りんご、葡萄、柿、栗、大豆、大根などの収穫が終わるのは十月である。秋は満月を家族で祝い、芋(里芋)名月、豆名月、栗名月とその時期に収穫されたものを供えた。米の収穫が終る頃に「秋祭」がある。当時、地方を回る「旅の一座」が、芝居、歌、漫才などを繰り広げた。テレビが村に入った頃から旅の一座も来なくなり秋祭も消えていった。秋祭りに続いて学校の「文化祭」があり、「敬老の日」の祝いを兼ねていた。収穫した果物や野菜の品評会も同時に催された。村の人達の娯楽と学校の行事が一体となっていたのである。十月下旬から干大根作り、味噌作り、米の脱穀が始まる。秋には学校の行事として「イナゴ取り」が行われ、オルガンやミシンなどの購入費に当てられた。授業が休みになるので皆楽しみにしていた。

   正月は旧暦で行なわれ、大(おお)正月と小(こ)正月があった。大正月は、仏壇と神棚、それに天照大神、大黒様、達磨様、高砂の翁と媼、等々とりどりの掛軸を飾り、御馳走を供える。普段使っている道具にも餅を供えた。元旦は村内の神社や祠に初詣に出かける。この頃は神仏だけでなく農具なども敬う対象であった。

   小正月には自分達で作った雪の家「かまくら」に、水神様をまつり、炬燵や火鉢、夜具を用意した。餅を焼き、もらったお菓子を食べながら年上の子供達の昔話を聞き一夜を過ごすのである。夢のように楽しいひと時であった。今は小正月もなくなり、観光のための「かまくら」が残るだけである。テレビが家庭に入り、地域に伝わるこうした行事が徐々になくなっていった。

   「住居」はどうだったろう。勿論、木造家屋である。木材は近くの山の杉や桧等を使い村の製材所で製材される。屋根は茅葺きかトタンで、豪雪地帯では、瓦はめったに使われない。居間の中央には囲炉裏があった。薪は山の雑木を夏に伐採する。伐り出す場所を順番に変え、十数年で元の場所に戻る。このサイクルで丁度全ての雑木が一人前に成長するのである。

   厳しい冬も終わり三月中旬頃、村一斉にソリによる薪の運搬が始まる。雪の上はどこにでも道を作れる。自然をうまく利用していた。山の斜面では馬は使えない。人力である。子供達も学校が終ると「お茶の時間」(“一休み”のことを「たばこ」と呼んでいた)のおやつを持って山に行く。焼いた餅をお湯に通し、きな粉、あんこ、ぬた等をまぶした餅である。労働の後のこの餅の美味しさは今でも忘れない。どんな美味な料理もこれに勝るものはないと、今でも思っている。老人も子供もそれぞれに応じた役割で家族を支えていたのである。

   「保健医療」はどのようにしていたのか。富山県の「薬売り」が毎年決まった時期にやってきて一年分の薬を置いて行った。手術等以外はこの富山の「置き薬」で治していた。お産は産婆さんの役目であった。老衰等で亡くなる時も病院ではなく、「家」で家族に見守られながら旅立ったのである。

   「衛生環境」はどうだったろうか。屎尿は発酵させて肥料とする。籾殻を焼いてトイレに蒔きウジ虫の発生を防いでいたが、それでも蝿が多く不衛生であった。終戦直後は特に蚤、虱が多く米国進駐軍によるDDTの人体散布で虱などは退治された。このDDTは後に人体に害を与えることがわかり使用禁止となる。

   「世代間の関係」はどうだったのだろうか。三~四世代同居の家族が普通であった。家族の中で一番敬われる存在は祖父母である。親は子供を厳しく躾け、祖父母は昔話などを通して孫に生きる智恵を教えていた。夜は家族一緒に過ごしていたのである。ラジオドラマは想像力を大いに育んだように思う。

   「教育」はどうか。生きる智恵と躾は家族の中で自然に行なわれた。学校の先生は子供や村の人達に信頼され親しまれていた。家の手伝いで休む子もいたが、「いじめ」や「不登校」はなかった。東京・名古屋方面に就職する仲間が多く、3月末には臨時の就職列車が出たのを記憶している。小学校入学の頃は60人学級2クラスであったが小学校5年生の頃より40人学級3クラスとなった。その後、生活様式は年々急変していった。

   以上が私達世代の子供の頃の農村生活風景である。

「茅葺きの民家」と「かまくら」

今に戻って

  その頃と現在の生活とではどこが変わったのだろうか。一つには、村全体としてほぼ百%の「自給自足」の社会であり、捨てるゴミの無い「完全循環」の社会であった。二つには、仕事も娯楽も家族一体、村一体の共同体であった。三つには、「生活」と「自然」が密着していた。「生と死」も、一つ屋根の下で身近に存在し、出産も臨終も家で行われた。勿論、当時の都市での生活は私の田舎とは違っていたであろう。一次産業が8割を占めていたその頃、大多数の人達が棲む農村地方での生活はここに記したようなものであったと思われる。

   6年程前の八月、植生調査のために、近畿の最高峰、海抜一九一五メートルの八剣山に登った。世界遺産となっている大峰山系の山々はシラビソ(白檜曾)、トウヒ(唐檜)の立ち枯れが一面に広がっていた。酸性雨や酸性霧による被害、鹿による被害などと言われている。植生は水同様、全ての生命を支える源である。

   水の豊かな日本で食糧の自給率が今、四十%を割っている。将来の食糧自給率はさらに下がると予想される。秋田で目にし、耳にしたことは、日本の農業が今まさに崩壊しようとしている姿であった。農業に希望を託せず後継者がいないのである。「衣食住」の元である「農林漁業」を支える「経済」への転換が迫られているのではないだろうか。

   「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず・・・・・・」。鴨長明の「方丈記」の書き出しである。世の中はどんどん変化してゆく。ここでは子供の頃の田舎の生活をたどってみた。「方言」と同様、記憶から消えていく前に、記録に残しておきたい当時の出来事がまだまだあると思う。同郷のみなさんの追加加筆を頂ければ幸いです。

写真説明

  横手市の「茅葺きの民家」と「かまくら」、現在は雪も少なくなり観光用だけに作られている。
  (写真は、横手市観光協会のホームページから借用、転載したものです。)

↑タイトルの画像は?
掲示板に投稿された「議事堂周辺の大屋梅」、投稿記事【22】、の写真を元に加工されたものです。

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