ふるさと栄会

寄稿記事

私の栄中校歌物語
   「三拍子校歌」を探した果てに

十一期生 大隅義隆(美砂古)

  栄中学校では私は美術部に入っていました。照井先生・金沢先生から指導を受け、夏には写生旅行もありました。同年では阿部邦昭君、工藤(阿部)静子さんの両阿部とよく写生をしていました。(カッコが旧姓)。この美術部の一級上の人には印象がなく、二級上ではノリオさん、ノボルさん、チュウジさんなどが印象に残っています。
  また私には音楽に関心もありました。特に楽器をやる人たちに印象があります。私もピアノが空いているときやってみました。しかし「両手が疲れる」ので長くは続きませんでした。私はその他多勢の笛っこを吹いていました。
  以下この物語には曲名や簡単な音楽用語が出てきますが、気にせずにお読み下さい。分数は楽符の最初に指定されている拍子です。

奥村ゆき先生と「雪の降る町」

  奥村ゆき先生は一年生のときの担任でもありましたが、音楽が担当でした。その音楽授業の最大の思い出は「雪の降る町」を教えてもらったことです。
  当時ラジオで「雪の降る町を…」というシャンソン風歌謡が流れるようになりました。奥村先生はその楽譜をわざわざガリ版印刷してみんなに配り、教えてくれました。
  「雪の降る町」は前半がさびしい感じのイ短調、後半は希望に満ちていくイ長調になるが、具体的に「転調」ということを知りました。
  教科書にないものを、しかも歌謡曲をガリ版印刷で教えてくれたことにすごく感動しました。思い出の曲です。

奥村先生と勳君の静かなやりとり

  ある日、奥村先生は音楽理論を説明していました。すると私の前の席にいた高橋勳君は机に頭を載せて寝るかっこうになりました。勳は「なんだよう、こんな授業はおもしろくねえべ…」と主張しているのが私にはわかりました。
  音楽理論が一段落した奥村先生はおもむろに「越天楽」(えてんらく・雅楽の曲)の前奏を弾き始めました。すると勳君はすぐ起き、教科書を開いて歌い始めました。満足のようでした。私は二人のその様子を見ていました。ストーカーかな?
  私は勳君が「越天楽」を好きなことを知っていたが、奥村先生もそのことを知っていたのです。こうして奥村先生と勳君の静かなやりとりは、誰にも知られずに決着していくのでした。

「三拍子」の栄中校歌が好き

  「雪の降る町」や「越天楽」もいいですが、そういう一般曲とは別に、私は栄中校歌「色香も高き大屋梅…」がとても気に入っていました。その楽譜は見たことがないですが、「三拍子」と言われていました。
  それは奥村先生から教わったということはなく、みんなそう言っていました。そして歌えばすぐ4分の3拍子(3|4)などの「三拍子」系であることがわかりました。
  一般に校歌などは4分の4拍子(4|4)などで、かつ重厚なものが普通です。しかし栄中校歌は明るく軽快、しかもワルツ風三拍子でした。私は卒業しても時々鼻歌で歌っていました。栄中卒業生として誇りがありました。

「雪の降る町」鶴岡で奥村先生と再会

  私は転勤族になっていました。昭和五六年に山形県鶴岡市に転勤になりました。実家の両親は「鶴岡には奥村先生がいるよ」と教えてくれました。ご長男夫婦と住んでいるということでした。
  鶴岡に住んで、時々奥村ゆき先生に会いました。私が作った曲を見せると喜んでピアノで弾いていました。
その鶴岡市ですが、ここでは「雪の降る町 発想の地」として冬に音楽祭をやっていました。栄中学校で奥村ゆき先生から「雪の降る町」を教わったことに加え、その街に一緒に住んでいることに運命?を感じました。
  そこに「ふるさと栄会」で役員をやっている太田弘久君から電話がありました。「東(あずま)さんが奥村先生の連絡先を探しているので、きみから教えてやってくれ」ということでした。それで小貫(鈴木)東さんに奥村先生の連絡先を教えました。
  そのようなつながりが大きな役目を果たしてくれるのですが、そのころはわかりませんでした。

高校野球で「三拍子校歌」を探して

  さて話はだいぶ昔に戻って、ある年のお盆に帰省すると、貧乏な実家にもテレビが入っていました。愛知にいる妹が買ってくれたそうです。長男としてはすみませんでした。ともかく高校野球を見ていると校歌が演奏されます。「そうか、高校野球を見るとその校歌がわかるのか、そこで三拍子校歌を探そう」と考えました。
  高校野球も春の大会・夏の大会とあるが、そんなに見られるものでもありません。また大会に出るのはほんの少しの高校です。それでもある年、三拍子とみられる校歌がありました。「三拍子校歌はあるんだな」と喜びました。
  ところが平成二三年、東日本大震災があった夏の大会で、三拍子校歌が三校も見つかりました。よく甲子園に出る高校でした。これが勝ち進んでいくので何回か聴きましたが、確かに三拍子と思いました。
  ちなみに国歌で言えば、例えばアメリカ国歌は三拍子(3|4)です。オリンピックなどでよく聴きます。三拍子・ワルツはヨーロッパで発展したし、オーストリアなど三拍子はめずらしいものではないです。
  なお日本の三拍子曲は大正ロマンで作られ、流行ったそうです。

栄中校歌の楽譜を探して

  昔は十一期生の集まりでも「ふるさと栄会」会合でも校歌を歌っていました。しかし三拍子のため調子がとりにくいのか、だんだん歌われなくなりました。手拍子では歌いにくいから、右123左123…と体を左右にゆらせるとテンポがとれると思っています。
  私は少なくても集まりの時は校歌を歌いたいと思いました。最近は病気の具合も良くなってきたので、やろうと思いました。
  そこで横手の幹事・和賀益人君に校歌楽譜を探してくれと頼みました。そして幹事の笹山隆子さんが南中学校に問い合わせたが、「探すのは大変」と言われたそうです。
  するとそこにたまたま東さんが帰省したそうです。隆子さんは「栄中校歌の楽譜がないですか?」と聞いたようです。すると東さんは「楽譜はないけど、頭の中にあるからそれを書いて義隆さんにファックスする」と答えたそうです。
  そのことをお二人から電話で聞きました。「さすが東さん」と何回も思いました。東さんはピアノをやっていて、奥村先生に代わって校歌も弾いていました。いまでもちゃんと楽譜を覚えていたのです。
  そして、たまたま帰省した東さんに「校歌の楽譜がないですか?」とかまわず聞いてくれた隆子さんもすごいと思いました。このようなタイミングはあるのですね。すべて感謝です。

東さんの栄中校歌ピアノ譜を見て愕然!

  年末にさっそく東さんからファックスで手書きの校歌ピアノ譜が届きました。「さすが東さん…」とまた思って楽譜を見ました。しかし愕然としました。かなりのショックでした。そして動揺も私を襲ってきました。栄中校歌は四分の三拍子(3|4)などではなく、八分の六拍子(6|8)だったのです。ぼう然としていると、東さんから電話がありました。東さんは「二拍子ですよ」と言いました。そこで昔から「三拍子校歌」と言われてきた意味がわかりました。
  8分の6拍子(6|8)の栄中校歌は「二拍子系」であるが、おそらく「三拍子とみなすと理解しやすいし歌いやすい…」ことだったのです。
  今回地震関係の学会では「宮城沖地震は想定してきたが、3・11の連動大地震は想定しなかった…」と大反省をしました。私の話は小さな小さなことですが「3|4拍子か3|8拍子は想定したが、6|8はまったく想定しなかった」と大反省をしました。ショックです。私は校歌楽譜が見つからなければ、四分の三拍子(3|4)として設定し、メロディをたどって音符と和音を想定しようと思っていました。東さんに怒られるところでした。

八分の六拍子(6|8)ってどんな調子?

  私は栄中を卒業後、横手工高に入りました。そこに美術部はなく、私は文句なく吹奏楽部に入りました。私はクラリネットの担当になりました。練習曲目には行進曲も沢山ありました。行進曲は2分の2拍子(2|2)が多いです。しかしとくに行進曲王と言われるスーザ作曲には八分の六拍子(6|8)行進曲が結構あります。 行進曲ぐらいのテンポになるとまったく違和感もなく簡単に2拍子として6|8行進曲が演奏できます。
  一方、私はいま昔の同僚たちと「湯田リハビリバンド」というバンドをやっています。このバンドはたまたま「6|8北上夜曲」をオープニング曲にしています。しかしゆっくりしているので私は四分の三拍子(3|4)に編曲しています。テンポをとりやすいためです。
  さて、テンポの早い「6|8行進曲」、ゆっくりした「6|8北上夜曲」などの中間にあるテンポの「6|8栄中校歌」の扱いです。そこで誰か「三拍子とみなして」ということにしたのでしょう。それが「栄中校歌は三拍子だ」という認識になったのです。
  楽譜はわかったが、歌詞もわかりません。すると横手にいる妹が手書きのファックスをよこしてくれました。「作詞・三浦左嘉喜、作曲・柿崎かく司」でした。東さんの話だと、作曲した柿崎かく司さんにピアノを教わった、ということでした。では作詞した人はどういう人なのでしょう?
  私は栄中校歌を愛唱してきたと言っても、詩も楽譜も何も知らずにきました。恥ずかしいです。

十一期生、久しぶりに校歌を大合唱

平成二十四年正月、私はギターを持って「雪の降る町」鶴岡を出ました。どこも雪でした。そして横手に行き、十一期生の新年会に出ました。校歌は一番を2回と思っていたが、一番二番またくり返しで、結構な合唱になりました。ここでは音楽理論の話をするとややこしくなるので「三拍子とみなして」やりました。
  そして六月、神奈川県三浦半島での「古希後祝い」にもギターを持って行きました。佐藤宗徳君らにお世話になりました。東さんも参加してくれました。そして校歌などみんなで4曲を歌いました。
  最初の3曲はストーリー作家?和賀益人演出で「リンゴの唄」「ああ上野駅」「ブルー・ライト・ヨコハマ」です。指揮は東さん・友木智信君でした。
  終わりの校歌の指揮では東さんは、手振りで大きく「二拍子」で指揮していました。そこで初めて私は「本来の二拍子としての栄中校歌」を意識しました。ただしみなさん二拍子も三拍子も意識はないようでしたが、しかしちゃんと合っていました。
  私は今後も集まりにはギターを持って行き、最後には校歌をやりたいと思っています。奥村ゆき先生の音楽教育と、同期生に感謝しながら。


↑タイトルの画像は?
掲示板に投稿された「議事堂周辺の大屋梅」、投稿記事【22】、の写真を元に加工されたものです。

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