大屋郷・東山道を行く大屋郷・東山道を歩くハイキング平成21年4月26日、「納豆伝説と梅の里、秋田の東山道行く」ハイキングが行われました(栄公民館、大屋梅保存会とJR東日本がタイアップ)。あいにくの雨にもかかわらず県内外から100名を超す人が参加。大阪から、新潟からの人もいました。 ハイキングコースの解説〈文責:黒沢 せいこ〉 --写真はハイキングに参加された方が掲示板に投稿されたものを借用させて頂きました。-- ○ 柳田駅 明治38年6月、奥羽本線の青森から横手間が開通して横手駅が開業。大正15年11月8日、横手から十文字間に柳田駅が設けられた。柳田駅は信号所として大正9年に設置されたものが昇格して駅になり、りんごや鯉の移出、大屋納豆などの行商にも利用され活気を呈した。 ○ 栄神社 大同年中、坂上田村府呂が東征の時に三間四方のお堂を建立して聖徳太子を祭り祈願したという言い伝えがあり、太子堂と呼ばれていた。一木立像の聖徳太子の像が安置されている。正保4年、大屋寺内から大屋新町の鎮守として移された。明治の初めころ聖徳太子の名前は仏様に近いものであるとの理由から、大谷(おおや)神社と改名されたが、栄六村の神祠(しんじ)を合わせておまつりしたことから明治43年に栄神社と名前を変えた。 ・ にへい堂 栄神社に連なる丘。俗称で「二平堂(にへいどう)・三平堂(さんぺいどう)」と呼ばれている。頂上部分が平らになっており、栄地区の眺望が開けている。大屋新町では、魔よけの祭壇とも呼ばれている。お多福状の形状をしていることから「三平二満(おたふく)」、低いほうの丘も平らなことから「三平、二平」と俗称されたものらしい。 ・ 持田の一里塚江戸時代に街道の一里ごとに植えられた目印の樹木。持田の一里塚は鈴木俊雄さん宅前にあったが、これは明治期の一里元標であり、秋田市から21里標を示すものであったという。 ・ ご陣屋の茶屋国道13号から栄小学校に入る道の角にある。神原善一さんの家は佐竹氏が参勤交代の途中に休憩したご陣屋で「持田のお茶屋」と呼ばれていた。高い石垣が当時を思わせる風情であり、玄関先には大屋梅の古木がある。 ・ 和談の森(長谷下)昔、大屋寺内村・大屋新町村・新藤柳田村の人々は、入会権や水利権などをめぐって何事につけても争いが絶えず、代官が仲裁に入ってようやくおさまるという具合であった。やがて時が経ち、憎しみも和らいできたので、三つの村の中間である小高い丘に集まり「仲良く暮らすにはどうしたらいいか」と相談をすることになった。約束を誓い合ったこの丘を「和談の森」と呼び、神明社を建て親和の象徴としたという。 ○ 日本一の木造校舎-栄小学校明治7年、鬼嵐地区の正伝寺境内に「大屋学校」として開校。明治19年、2校が統合して大屋新町小松原に移転。明治22年、町村制の実施により一村一校となり栄小学校となった。現在は、秋田杉を使った、日本一の規模を誇る木造校舎として見学する人が絶えない。雁木造りのユニークな造りでもある。昭和50年までは、隣接して栄中学校があった(昭和46年、横手南中学校となる)。 ○ 市天然記念物「大屋梅」持田の伊藤茂夫さん宅にある古木。樹齢500年くらいと推定され、昭和49年に市の文化財に指定されています。 ・ 腰掛け石(こしかけいし)持田、阿部一雄さん宅には腰掛け石(凝灰岩)があります。参勤交代のお殿様や徳の高いお坊さんなど、偉い人が腰掛けた石と伝えられています。昔は現在地から離れた藪の中、羽州街道沿いの井戸端の大きな杉の木の下にあったそうだが、土地改良により自宅のお堂に祭られております。昭和20年ころには高さも150センチほどあったそうですが、風雨にさらされて大きさも高さも形も変わってしまいました。 ○ 長谷の七色銀杏長谷山観音寺の旧跡地にある千年を経たといわれる銀杏の大木。「七色銀杏」と呼ばれ、桜など七種の木が宿生していたという。この銀杏の木は実のならない男銀杏であるが、お参りすると母乳が出るようになるといわれ、信仰の神木で参詣人が絶えなかった。また、―人の僧が杉の大木の根元に一本の杖を突き刺したのがこの銀杏で、杉の木と夫婦であったとの伝説があります。現在は根生えが数本生えており、齢300年以上と伝えられています。 ・ 長谷神社(初瀬観音)(写真:長谷の観音様への道・ハイキングには畔道が良く似合う。まだ桜も見られる。) ○ 大屋沼長谷山の近くに天正年問(約四百年前)に水不足解消のために大屋沼を造ったという記録が残されている。沼の周囲は約四キロで管理道路が周遊している。現在、大屋沼貯水池は楢沢沼と導水路で結ばれており、農業用水として利用されているが、最近まで「横手鯉」の養鯉場として有名であった。大屋沼の「沼干し」は圧巻で、晩秋の風物詩でもあった。 ・ 高松宮殿下お手植えの松・ 東山道跡(とうせんどう、とうさんどう)【別紙参照】羽州街道よりも古い官道。稲川の東福寺から馬鞍-楢沢-寺内-新町-美砂子-大堤-婦気を通って横手市内に入った山道。 ○ 正伝寺・江津の庭梅・ 弥三衛門地蔵、弥三衛門杉 寺内村の肝煎りであったが、飢饉の年に年貢の滞納が続いた村人に無慈悲な事をした弥三衛門に怒った殿様が、弥三衛門に磔の刑を言い渡した。弥三衛門は正伝寺の和尚さまに助けを求めたがそれも叶わなかったという伝説がある。のちに村から税金の滞納者を出さないという教訓を込めて「弥三衛門地蔵」を建て供養したという。正伝寺山門にある六地
蔵の真ん中「一刀清句信士」(元文辰-1736)と刻まれたものが弥三衛門地蔵であるという。 ・ 正伝寺 大昔は大屋沼畔の長谷山観音寺跡地にあったが、何度も火災に遭い、そのうちにお寺の名前も祝融山正伝寺と改められ、現在の鬼嵐地区に移された。正伝寺には三僧の伝説があるが、その師匠である大州梵守(だいしゅうぼんしゅ)和尚が背負って来たという、京都長谷寺の三十三観音のーつといわれる聖観音像は正伝寺の宝物として、県の文化財に指定
されている。 ・ 正伝寺の聖観音・ 正伝寺の三十三観音・ 大屋梅林・ 大屋学校の跡碑・ 旧栄尋常高等小学校前の桜並木・ 大屋梅発祥の地(江津の庭梅)元慶の乱(878)の時に、鎮守府将軍の小野春風の家来として秋田に来た、江津彦右衛門という武士が藤原と名前を変えて大屋の鬼嵐に住み着いた。江津はある日、自分の屋敷に一本の浪花梅の木を植えたという。梅の花は一重のうす紅で、この梅が屋敷梅の元となり大屋地区は美しい梅の里になったと言われる。千年の年を経て、古木は枯れ果はてて しまい、若木が花の様子を伝えている。 ・ 大屋館跡 寛正6年(1465)のころ、この地の豪族であった十代、小野寺泰道は、息子の道壽を大屋館に居城させたという。永禄年間(1558~69)には日野備中守某が、天正10年から文禄5年ころには小野寺道治が居城したと伝えられている山舘である。三角錐状の頂上に、二の丸や四方約20メートルの主郭が置かれている。道壽が大屋館に居城してから人家も増え、田畑の耕作も盛んになったといわれている。 ○ 光徳寺 大屋新町字中里にある真宗大谷派(一向宗)のお寺。天正年中はこの地を収めていた豪族、小野寺氏に属した勇猛な僧侶がいたという。山号は新田山。馬鞍から永禄年中に現在地に移され、報恩講が行われていた。お寺の前はりんご畑で、5月中旬はりんごの花が美しい。 ○ 大屋梅の古木 大屋新町に現存する大屋梅の古木が数本見られる景勝スポット。 ○ さかえ館 平成13年4月1日、総合交流施設「さかえ館」として新しい建物が完成した。栄校舎の旧校舎を増築した建物は、鉄筋コンクリート一部二階建て、床面積1673平方メートル。健康交流ホール、研修室、調理実習室などがある。総事業費3億5千8百万円。昼食時には、納豆汁と大屋梅干し入りおにぎりを試食。希望者は短冊をさかえ館前の枝に結んで帰ることも出来る。 ※その他(アラカルト)○ みさごの清水(美佐古) 昔、みさごの清水の場所は一里塚で、一本の大杉があったと言われています。その傍らに二体の地蔵様が建っていました。大きいほうが「美佐子地蔵」小さいほうは美佐子の産まれなかった子どもです。参勤交代の折り、堀江家の娘が臨月に近く土下座が出来なかったために無礼打ちになったと言う、悲しい伝説が残されています。 ○ 大屋納豆長くて千年、短くて350年の歴史を持つのが大屋納豆(おおやなっとう)である。元々は農家の副業として発展し近隣に売られていた。「大屋の納豆売りばっぱ(婆)」として親しまれ、一つの風物詩ともなっていた。しかし、戦前には一村(新町、中里、赤谷地など)73軒のうち70軒が納豆を作っていたが、戦後には35軒に減ってしまった。昭和29年の稲わら規制法のしばりなどもあり、昭和50年には完全に製造が中止されてしまい、一番列車から納豆売りばっぱの姿も消えてしまった。平成20年6月、地域おこしの一環としてこの大屋納豆が30年の時を経て再生され、販売に向けた検討がなされている。 ○ 大屋りんご りんごが栄地区で最初に栽培されたのは、明治35年から42年ころとされている。当時、りんごの先進地であった増田町沢口方面から、国光、紅玉、大和錦などの苗木を取り寄せ、屋敷内に植えられたのが始まりであった。 ○ 大屋の薪(薪炭材)山に近いことから柴山・薪山を共有地として持っていたため、かた雪を利用し、橇につけた自家用の柴木や田んぼに堆肥を運搬する作業は、冬の風物詩ともなっていた。 ○ 石切り山の石(堤石・大屋石)現在の赤谷地から八王寺周辺一帯が石切り場であった。堤石とも呼ばれ、井戸の枠や家の土台・塀などに使われていた。「石切り山の石(堤石・大屋石)」が掘り始められた歴史は古く、500年以上は経過していたと言われている。金具ではなく木斧で掘った跡も残されていた。昭和25年当事は、12軒ほどが権利を持って掘っており、一年間の採掘の平均は30坪ほど、金額にして約40万円(当時の貨幣価値)ほどであったという。安田、安田原、赤谷地、堤地域に埋蔵されている石は、200年・300年では掘り尽せない莫大な量であるという。しかし、需要も次第になくなり、美左古の高橋、婦気の佐々木さんなど最後まで石を切っていたが、昭和40年代後半には完全にその姿を消してしまった。 ○ 天然氷栄地区では多くの沼を利用して製氷業が盛んであった。天然氷の生産は昭和20年代まで続き、近隣からの注文も多かった。主に食用・冷蔵に用いられた。八王寺公園東側の沼が最後の製氷地であったというが、昭和30年代までは田久俣沼の天然氷は風物詩でもあった。 ○ 養鯉(ようり)大正2年に大屋沼と田久保沼の2ヶ所に放流したのが養鯉の始まりであった。戦中戦後の貴重なたんぱく源の確保に大きく貢献したという。秋の沼干し時の風景は圧巻であり、大屋沼、田久保沼共々風物詩であった。しかし、需要の不足から今は廃業し、両方の沼は濯漑用水となっている。 ○ 大屋柿大屋新町・美佐古が密集地であった。味は横手柿より落ちるが、収穫量は多い柿であったという。現在も新町を歩くとちらほら見られるが、ほとんど収穫されずに樹に残っている。 |
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