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東山道について〈文責:黒沢 せいこ〉 1.東山道とは古代日本の中央政府は飛鳥時代から平安時代の前期にかけて、計画的に道路を整備した。地方では6メートルから12メートルの幅があり、京の都周辺では24メートルから42メートルの幅員を持った直線道路であった。東山道は、奈良時代に中央と地方を結ぶために、政治的に造られた国道であった。古代の五畿七道の一つでいわゆる官道の名称であった。 畿とは、首都の意味であり、京都周辺を「畿内」。その周辺五ヵ国を「五畿」とし、畿内周辺国を「近畿」と呼んでいた。 ○七道とは、 ○東山道の「道内」を走る街道
ルート 2.東山道の呼び方 東山道= とうさんどう・とうせんどう。あずまのやまのみち。略して「やまのみち」 ※山道を呉音で「せんどう」、漢音で「さんどう」と呼んだ地名が今でも残っているが、研究者の用語では「とうさんどう」が通用している。 ※「奥羽観蹟聞老志」「封内風土記」「下伊那史4巻」など藩政時代の文献には様々な文字があてられている。しかし、東山道が文献に初見されるのは、彦狭嶋王を東山道の十五国の都督に拝したという「日本書紀(景行天皇55年2月壬辰条)」であるという。十五国というのは「美濃より以東」と記されている。 3.東山道はいつごろできたのか大化の改新(大化元年645)により「駅馬・伝馬」制度が出来ましたが、実際に整備がされたのは大宝元年(702)の大宝令が制定されたころと言われています。「続日本紀」の大宝2年(703)の記録に「初めて美濃国の岐蘇山道を開く」とあり、この「岐蘇」とは木曽谷を通る新しい道を開いたという通説と、神坂峠を越えるコースが整備されて「駅」の整備も整ったという説の二つがあります。その後、木曽路を通った記録はなく、神坂峠越えは大変だったという記録が多いことから後者が有力となっている。 4.東山道はどこまでの道か東山道の起点は、琵琶湖の南端、近江国(滋賀県)の瀬多(瀬田)。終点は宮城県の多賀城まででしたが、のちにY字状に分かれて、一方は陸奥国(岩手県)の胆沢を経て志波城まで。もう一方は出羽国(山形・秋田)の秋田城までとなっていますが、秋田での道は幻の道と言われております。距離にして千キロに達しています。 近江の瀬多(滋賀県)から始まり→美濃・飛騨(岐阜県)→信濃(長野県)→上野(群馬県)→下野(栃木県)→陸奥(福島県以北)→出羽(山形・秋田)の諸国ですが、道ばかりではなく、国々の地域をまとめて「東山道」ともいいました。 5.東山道に駅と駅馬の数はどれほどあったか「延喜式川こは、支線も含めて令部で86駅あったと記されています。信濃国だけで15駅、駅馬数は165匹。駅には10匹ほどの馬がおり、馬一頭に5人から6人の駅子がいたと言われています。駅と駅の間の距離は通常30里(16キロ)とされていました。駅に付属した駅田の広さは3町歩(3ヘクタール)と推定されています。 6.だれの指図で運営されていたのか駅には駅長がいました。駅長は朝廷や国司から派遣された役人ではなく、その土地の有力者や土豪が任命されていました。駅長の仕事は、国の役人や駅使の送迎などのほか、駅子や駅馬の配置や馬の仕度、駅家・駅田の管理などでした。終身的に任命され、任務は重く、租税や労役はそのかわり免除されていました。 7.駅子たちはどんな仕事をしていたか詳しい記録はないようですが、当番制のようになっていて駅舎に勤務していたと言われている。駅子は土地の農民で、駅馬を出す必要があるときはいつでも応じられるようになっており、駅使や公用の役人などを出迎え、荷物を背負い、駅馬と供に次の駅まで行き、交代して自分の所属駅に戻っていた。 また、通常は馬の世話や公用使のための休息、食事、宿泊などの仕事をし、当番でない駅子は駅田の耕作や道路の整備をしていました。 8.駅馬を利用したのはどんな人たちか駅馬を利用したのは、国の役人や国の役目で通った人、駅使(公用の荷物などを次の駅まで送り届ける駅子)などで、ほかの人は歩いて通りました。駅馬を利用した人の中にも普通の速さで通行した人と、至急の報告や命令を持って通る「飛駅使」がおり、飛駅使は一日に10駅を走り抜けるように規定されていたと言われますが、10駅は160キロにもなり、無理だったと思われます。駅馬を利用する人は駅鈴を鳴らして通行しました。また、駅まで行けずに途中で日が暮れてしまった時は、大木や岩の陰などで野宿をしました。 9.庶民はどうして通ったか一般の庶民は駅馬を使うことはできませんでしたので、公用の通行を妨げないように通行しました。駅路の周辺には果樹(梅、桃、梨、胡桃など)が植えられ、水がない所には井戸などが掘られていました。道路幅も6メートルから12メートルと広く、両側には側溝を持つ、現代の道路にも劣らない構造でした。 10.駅制はいつまで続いたか東山道の駅制がなくなった時期の記録はないそうですが、10世紀後半のころには地方制度が乱れ、財政の窮乏などにより駅子の逃走なども絶えず、駅戸は離散したという。盗賊が出没し、都へ送る荷物を奪い取り、旅人を脅かし、旅行日の吉凶などによる交通障害なども手伝い、承平・天慶(931~946)のころには駅家の維持が困難になったと言われる。しかし、駅制による駅馬の 往来がなくなっても東山道が利用されなくなったわけではなかった。その後も休息の場であり宿泊の場所として姿を変えて利用されていった。 11.駅路と伝路駅伝制は駅路と伝路から構成されていた。 駅路は、中央と地方との情報連絡を目的とし、最短の直線で結ばれており、30里(約16キロ)ごとに駅家が置かれていた。駅路は重要度から大路・中路・小路に区分されており、中央と東国を結ぶ東山道は中路に位置していた。駅家に置く馬を駅馬と呼び、大路で20匹、中路で10匹、小路で5匹と定められていた。駅路は重要な情報を中央へ伝達する目的上、路線は直線的であり、集落とは無関係に結ぱれ、道路幅も広く、地域間を結ぶハイウェイ的な道であった。 伝路は、中央から地方への使者を送迎することを目的とし、郡ごとに伝馬が5匹置かれる規定があった。伝路は郡家を結んでいたために、地方間の情報伝達も担っていた。自然発生的なルートが改良、整備されたものが多く道幅も6メートル前後が多いとされている。 駅路と伝路は別々に整備されたが、路線が重複する区問では駅路が伝路を兼ねていた。また、次第に伝路は駅路に統合されて行った。そのため利用されることが少なくなり、今度は実用的な伝路を駅路とするなどの変遷を伴うが、10世紀から11世紀初頭には駅伝制も駅路も廃絶した。 12.東山道のルートを知る古代道路である東山道のルートを知る基礎知識として「延喜式」が上げられる。延喜式には駅路ごとの各駅名が載っているため、駅家の所在を推定することが出来るからである。駅家と駅家を結ぶルートから大まかな駅路が推定出来るわけである。また地名は古代道路に由来する可能性があるのである。地名では「大道(だいどう)」「横大路」「車路(くるまじ)」「作道(つくりみち)」「立 石」「仙道・山道」「縄手(なわて)」などである。駅家に由来する地名は「馬屋・馬込・間米」などがルートを知る重要な手がかりと言える。ほかにも字界や地割、条里余剰帯(みちしろ)など様々な手がかりがある。 ※奈良時代は「峠」は「坂」と呼ばれていた。主要ルートを「オオサカ」「ミサカ」などと呼び「ミサカ」は神を祀る所を示す呼称でもあった。峠に坂が使われている場所は古い地名かも知れない。坂はある地方から別の地方への境であり、特別な場所でもあった。 ○文献から探す
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