ふるさと栄会

大屋郷の歴史スポット


〈文責:黒沢 せいこ〉

 

○ 寺院づくりの「栄神社」

  「太子堂(栄神社)」は正伝寺開基に協力した禅僧三人の一人で大海が中将姫が蓮糸で織ったという曼茶羅、聖観世音(金銅仏)、聖徳太子木像、この三信仏を笈に修めて修行したという。曼茶羅は山内村上黒沢与右エ門家にあり。聖観世音は正伝寺の本尊として現存し、県重文に指定されている。聖徳太子木像は大屋新町村源内家(現当主高橋源悦氏)の屋敷内に小祠を建立し、村の鎮守として奉置した。明応年間(一五〇〇)の頃である。また現在地に移築された年代は不詳である。

  現在の御堂は寛政十二年(八〇〇)新田山光徳寺の立て替えられた年であり、膨大な残材をもとに大屋若神子(わかみご)沢からの伐木により木匠(大工)もそのまま移動して完成されたものという。彫刻の素晴らしさは目を見張るものがあるが大工の出自が判らず、作者不明であるのは残念でならない。明治初年、神仏分離令により、聖徳太子は神にあらず、仏であるとされた。その時太子木像を縁の下へ隠してその場を逃れた。その太子像は大海が源内家屋敷内に祠を建立し奉置したものではない。その像は不明である。現有の像は宝永元年(一七〇四)六月二十二日、仏師村木伊右衛門作である。(神原氏)。また、昭和五十四年奥殿建立、本殿内装の際箱の隈から二寸位(六センチ)の太子木像が発見されたという。願形、充実した力量感、崇高、静寂の境地、明るい神秘感、まさに小像中の傑作というべきではなかろうか、かなり古い年代のものと思うという。(神原氏談)いずれ専門家の鑑定を要するであろうが、禅僧大海と接点があれば興味のあるところである。太子堂を大谷神社と改称された。大正二年一月十四日その向きの許可を得て六部落の神祠を合社して栄神社と改称した。昭和二十年終戦によって大きく世の中が変わった。先ず憲法改正である。信教の自由によって栄神社に集められていた六部落の神社の御神体が、それぞれの村へ帰ることになった。それが村の鎮守としてのメルヘンに出てくる本当の姿のような気がしてならない。昭和二十四年五月国立博物館陳列部長石田茂作博士が東北地方の古仏調査に来訪、正伝寺本尊を調査しての帰途、太子堂を見分されて曰く、寺院造りであることを説明して帰られたという。百八十年余を経過していまなお立派な建物であり文化財である。大切に保存したいものだと思います。

○ お多福状の三平堂・二平堂

  横手市の南郊四キロ、国道西側に栄神社がある。周囲の微小分離丘を俗称で三平堂・二平堂と呼ぶ。約三㍍と五㍍の階段状の山体で、頂上を平らにして、お堂を建て、大屋新町では悪病、魔よけの祭壇とする。三平堂、二平堂を昔の人名に結びつけて「三平という人、二平という人」の住んでいた場所と考えられているが、飲料水がなかったことを第一の理由に、人の居住地でなかったろう。仙北の「乙越」と同じ地形のお多福状の原地地をなし、大屋から新藤に通ずる踏分の小路を有する峠であった。中世に「おたふく」を「三平二満」と書き低い方の岡も平らであるから近世に「三平、二平」と俗称する地名と考える。「おたふく」の「おた」は「乙御前」から「おとごぜ」と転じ、「乙越」と変化する。国道開通以前、栄神社建立以前の三平堂、二平堂は「おたふく状」の峠であったことから地名となった。

○ 文化財の大屋梅、争いごとを解決する和談の森、そしてご本陣の家

  伊藤繁夫氏宅裏にこれまた大屋梅の大木がある。樹齢五百五十年という。(横手市文化財指定)この梅の木屋敷は、昔寺院跡と古老は言うが定かではない。伊藤家のすじ向かいに大銀杏があった。天を突くという言葉があるが全くその通りで、太さも大人四~五人でやっと抱えるという代物、それにぶどうが絡みついて実がなった時など見事なものであった。向かいに阿部さんと言う家の屋敷にあり通称「銀杏の樹の家」で通っていた。恐らく二百年以上も経っていたであろう、戦時中に伐ったとのこと、今頃まで生い茂っていれば当然文化財ものだったであろうが、それぞれの事情だから致し方のないことだと思います。そこから百メートルばかり横手寄りに大屋川(餅田川)が街道を横断している。この当たりにも旧家が集まっている。旧小学校入り口南角に通称「御本陣」の家がある。もともと鬼嵐の両学寺が別荘として建てたものであり、佐竹氏が参勤交代で江戸出府の折り、大屋寺内村堀江家と交代に休憩所として使用したと言われている。正式に御本陣として借り上げられたのは、両学寺(神原家)の記録によれば嘉永三年(一八五〇)となっているから幕末風雲急を告げている時代であり、以後、佐竹公の江戸出府の記録は無い。「御本陣の家」こと現当主神原善市氏は、「両学寺」(神原家)の分家として十文字開村(ひらき)に住まいした、現当主で十代目である。ところが、二代目か三代目か定かではないが、本家から別荘の留守番を命ぜられ、始めは十文字開村から通っていたが何分にも遠方なので通いきれず、家族揃って引き移り現在に至ったものという。「御本陣の家」も老巧化に勝てず昭和四十年代に解体された。戦前、戦後を通じて、その家屋の研究に訪れた史家は少なくない。それほど立派な文化価値の高い建造物であった。「横手市指定御本陣跡」史跡の標識を見るにつけ、梅の木(大屋梅)とその根本に生い茂るオンコの両古木が往時を偲ぶよすがとなっている。

  神原家の後に小高い森があり、八十八の石段を登り詰めたところに小さな「祠」がある。村人は神明社だと言う。その昔、大屋寺内村、大屋新町村、新藤柳田村の三ヶ村は森林、水利の組合を作った相互の仲である、ところが、争いが起こり(水争いではなかったか)お互い交際を絶つ程であったと言う。しかし、日がたつにつれ、何時とはなしに心も和らぎ、打ち解けたので、三ヶ村の人達がこの森に集まり和合の話し合いをしたという、話もまとまり「神明社」を建立して、名も「和談の森」としたと言われている今に残る昔話である

○ 長谷の七色銀杏

  大屋寺内に長谷と云ふ処あり。里人の云ひ伝へに拠れば、往昔修行の僧侶あり。京都長谷寺の三十三鉢の観音像―鉢を背に来り、出羽国大谷の郷に来り、長谷に一寺を建立して之れを祀れりと。

  其境内には千有余年を経たる雄大なる銀杏樹あり。其廻り二丈余にして、躯幹高さ丈余の処より、かだすみの木の、枝の如く銀杏樹の朽穴より生じ、其廻り三尺有余にして枝葉も又た茂げれり。亦た其上部、―段高き処より、桜樹廻り二尺余のもの是れ又枝の如く生じ、昔し同木の朽穴より枝の如く生じたる六種ありければ、里人は七色銀杏と称せりと。又た境内に接近せる東北隅に方り、南方に面する小丘あるが、其処々に小塚あり。明治二十年頃、開掘するに、往昔用に供せる金具発見せり。而し其先端は消滅せるを以て、其用途詳ならず(中略す)。

○ 大谷沼の由来

  国道の東に方り(持田上端)、山あり。婉蜒三面を囲み、此れを長谷山と云ふ。山隈窪地の個所に、元和元年(今年前三百二十四年)、沼を築立てて、新藤柳田外一ケ村田地二百町歩の水源に供し、其周囲約一里余と云ふ。之れを名付けて大谷沼と称す。又其近傍に千余年を経たる銀杏樹あり。因って銀杏沼とも云ふ。

  其沼、形状恰も楓の葉形に似て、角股三四あり。其水の深さ二丈余ありて、鯉・鮒・小魚等多く、風静なる日は波間に出没す。樹木森然として汀岸を環らし、松樹蒼々、或は列り或は脆き、或は立ち或はイトれ、水破玲瀧の状、松風颯々面を払ふて涼あり。秋月高く中天にありて、金波銀浪汀岸を打つの景、桃源にあるの感を起こさしむ。之れを以て春好及び納涼の時季、将又中秋の観月には、貴賤老若観游の人、群集せりと云ふ。

        大谷沼晩釣
     堪喜揚竿魚上釣  春風波暖白鴎浮
     好是江頭多楽事  乗興吟遊日夕留

O 「弥左エ門のこと」

  寺内集落に通称川前という所がある。大屋川が東西に流れている辺に、現在の河正さん宅がある。その昔、弥左エ門という肝煎の屋敷だったと言う、この弥左エ門について説話がある。角兵衛という百姓が年貢を怠って納めようとしない。怒った弥左エ門が角兵衛の家を取り潰した。それが無慈悲の沙汰とあって、傑の刑が決まった。すごすご村道を引かれて行く弥左エ門が、正伝寺門前で和尚の姿を見つけ一縷の望みを託したが、和尚とて救つてやりたいのは山々だが、如何ともしがたく、見送るだけであった。哀れな囚人の姿が、何時までも瞼から消えず、不憫に思った和尚は、自ら施主となり弥左エ門のため墓石を建てた。正伝寺境内鐘楼の下、左側は六地蔵、右側が弥左エ門親子の墓石のようである。「一刀清句信士」と法名があり、元文辰二月二十七日(一七三六)の死亡年月が刻まれている。また、弥左エ門辞世の句と言われるものに、「重太郎や罪の深さは大屋沼、早く頼めや長谷の観音」。こんな昔話をしてくれる古老も居なくなった、寂しい限りです。

○ 平泉文化を運ぶ東山道

  羽州街道は佐竹藩が封じられた直後に開設されたのであるが、今は解ったことであるが、その前のそれに相当する道路は何処を通っていたのか、大正の末か昭和の始めか青年団長の細川養助氏が、横手町の郷土史家、多分大山順造氏か深沢多市氏か忘れたが、青年団員に講演をしたことがあった。その節の講演で十文宇町の十宇路は現在の処よりも東に寄ってあったとのことであり、羽州街道に相当する道路は現在の街道の東にあったことになり、外目村の古道はその一部であり、大正の小学生時代、先生から昔の国道は大屋沼端を通ったと教えられたし、その後父親から、新町の部落は国道より一町(約110米)ばかりの距離で並んで出来ている不思議のように話をしてくれた。その時はそういえばそうだな位にしか考えなかったが、その後羽州街道の由来を糾明するに及んで矢張り新町は昔の往還上に出来た部落で、羽州街道は距離を置いて後から通っているところだ。

  昔のその往還は十文宇町の東の仁井田羽場で十文宇となって麻当開五郎兵エ野、野中、関合、中篭田の中を通り田甫の中を三島道中の中間を通り馬鞍田甫を過ぎ、浅舞山入会山の龕灯松の下を通り菻沼(がずぎぬま)の上土堤(うわどてい)を(現在は楢沢貯水池の真中)通り外目地内の古道を通り大屋沼に至り、沼の中央を通り(これは私は沼の中を通ることに疑問を以っていたが)羽州街道の開削通は慶長八年(一六〇三年)で大屋沼の築堤は元和年間(一六一五年~一六二四年)で約十三年前には古道は廃道になっていたのである。

  現在の大屋沼堤防下より大屋寺内字堀ノ内の端を通り大屋新町に至り字美佐古で羽州街道と交叉して堤の中を行き大堤部落を通り婦気部落を過ぎ現在の横手駅横の平城、横手町に至るものであった。この道は東山道といい川連へとつづいている。

○ 菅江真澄が書いた大屋梅の図絵

  鬼嵐は平右衛門(現在の阿部平治氏宅)、彦右衛門(現在の藤原鎌彦宅)の二家より起こり、先祖は(元慶二年、八七八)夏、出羽の俘囚が反乱を起こしたおりに鎮定のため、小野春風を鎮守府将軍となし出羽に進出した。その時の随伴の臣といわれ鎮定後この地に土着したものといわれている。また、中里の「治部、斉、和泉」の三家の先祖を平家一族なりと云うが、文治五年(一一八九)の平泉の藤原氏滅亡に際しての落人と見たい。文治元年(一一八五)平家滅亡と混同しての所伝と考えられる。「佐川良視氏」彦右衛門は江津と号し江州(滋賀県)の出身といわれている。庭にある梅の木は大屋梅の祖といわれ、現存のものは三代目のものである。

  文化、文政の頃(一八〇四~二四)「菅江真澄」が見たままを次のように記している。「江津が庭梅おなじ鬼嵐の彦右衛門が庭にあり、まことに大樹にして出羽陸奥はいうもさらなり、かかる梅の木は世にたぐふかたやはある。花は一重のうす紅にて里民は浪花梅といえり。樹の高さ三丈四、五尺(約四メートル五十センチ)、東西十二間(約二十一メートル八十センチ)目通り一丈一尺(約三メートル三十センチ)とある」。彦右衛門家は藤原氏を名乗り阿部氏と共に連綿として栄えている。

○ 小沢征爾が演奏会開いた正傅寺

  曹洞宗正伝寺は、往昔は宮城・秋田両国の堺、山脉(さんみやく)重畳の深山、人家を距ること三里余、一名三ツ森岳、又は時宗山とも云ふ、其絶頂にー庵を結って道場と為し、三観仏乗に身を曝し、苦行の僧呂あり。何国の者なるや詳ならず。其の名、行海・性海・大海と云ふなり。延徳・明応(今年前四百四十九年)の頃の由、其庵室を山内、上黒沢に移し、以て四教円融の道を専修せるものなりと云ふ。

  然るに後柏原帝の御宇に当たり、文亀・永正年中(今年前四百三十八年)、偶々相模国小田原、海蔵寺の三世大洲梵守の英哲には、―宗弘通に力を尽くして、辺鄙(へんぴ)の群類甘露の法雨を灑し、巡錫の縁に逢ひ、三僧、到来の大師に遭たるを喜び、随身し、三国伝来の観音の銅仏、中将姫が蓮絲にて織りたる曼陀羅、聖徳太子の木像の三信仰仏を笈に納めて修行せりと云ふ。

  銅仏の観音は正伝寺の宝物として現存す。又、曼陀羅は上黒沢に在り。聖徳太子の木像は大谷新町の鎮守社に今存在す。大洲梵守師、此の三僧と力を戮(あわ)せて正伝寺を開基して、祝融山と号す。

  焉(いずく)に奇瑞(きずい)あり。寺建営の計画中、梵守の夢に、白山神、獅子の背に端座し来たり、示言して、宜しく此の一山にして止むべからず、外三寺も創くべしと云ふ。不思議の事なり。依って告命の如く行へば、事必ず意の如く成ると。茲(ここ)に於いて全く白山神の擁護に由るものの如しと云ふ。其当時、寺内長谷と云ふ処に在って、観音寺と名称せりと云ふ(茲に理由あるならん)。尓来(じらい)火災に罹り、幾度か再建を経て現寺となれり。此間四百有余年に亘れり。寺の境内に小さき祠を建て白山を祭り、宙神堂と云ふ。其の獅子を模造して今尚安置す。

  当寺の十世に智舜と云ふ名僧あり。戒律堅固の聞へ世に高く、国主佐竹公御帰依あり、寺領高三十石拝領し、国主歴代の追福回向を修す。明治四年、右寺領御廃止となりたり。

  因みに云ふ。祝融山とは、祝は祭りなり。融は明なり。神を饗応するの辞なり。「史記」楚世家の註にあり。又祝融は神名なり。??(せんぎょく)の子黎を火官としたるより、火の司々、「佐伝」の註にあり。又唐土三十六峰禅山の一名移唱せりとも云ふ碑也。

○ 大屋梅林・大屋納豆の発祥地大屋新町の沿革

  往古其名称詳ならず。元と大谷と唱えて三ヶ村を云ふ。即ち寺内・新町・新藤柳田なり。水源の組合によりて称するものの如し。

  大谷とは南北連山相対するを謂うならん。慶安年間の郡司代官某氏の云々に、湿水の地にして大谷とは、「谷」は火の口と書きて乾燥の宇義なれば、是は土地に不適当の意味なりとて、「屋」の宇に改称すべしとて、検地御帳の表紙に「大屋」と書き染められたるに因ると謂ふならん。


↑タイトルの画像は?
掲示板に投稿された「議事堂周辺の大屋梅」、投稿記事【22】、の写真を元に加工されたものです。

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