ふるさと栄会

栄地区の東山道


〈文責:黒沢 せいこ〉

1.栄地区の沿革

  旧栄村(さかえむら)は、大屋寺内村・大屋新町村・新藤柳田村・外目村・ 婦気大堤村・安田村の6ケ村が、明治22(1889)年・1月1日の町村制実施により合併した村である。「栄村」の村名は村民の希望により名付けられたものである。昭和26(1951)年4月1日には、当時の横手町に編入合併して横手市となった。

①山川郷

  古代の栄地区は、横手・醍醐を含む「山川郷(やまかわごう)」の中に位置していた。文献として歴史に登場するのは平安時代の元慶2(872)年3月15日。県北の米代川流域以北に住居する蝦夷が秋田城(秋田市高清水岡)の圧政に反抗して乱を起こした。このとき、鎮守府将軍であった小野春風が援軍に出向き乱を平定したが、その帰途に付き従ってきた江津彦右衛門と阿部平右衛門の二人は国へ帰らずに大屋地区「鬼嵐(おにあらし)」に土着した。

  江津彦右衛門は江津から藤原と氏を変え一本の浪速の梅を埴えた。この梅が大屋梅の祖として花を咲かせ、実を結び、梅の里と呼ばれるようになった。このため「江津の庭梅」と呼ばれた。一方、阿部平右衛門の家も代々平右衛門を通称として現代まで連綿と続いている。小野春風はこのとき「昼夜兼行して飛駅道(ひえきみち)を辿る」と藤原保則伝に記録があり、両家がなぜこの地を選んだかについては、古代の官道と深いつながりが感じられないだろうか。

②古代五道のみち

  中央政府の記録である「続日本紀」には、宝亀11(780)年、雄勝、平鹿二郡の百姓(民衆)が蝦夷におどされて仕事も手につかず逃げ出してしまい困っている。郡府(町や館)を建てて、口分田(公有地)を貸して、向こう3年問は税を免除した。しかし、蝦夷は陸奥(岩手県)から出羽(秋田県)へ頻繁に往復し暴れるので、二千の兵を遣わし陸奥国に通じる五道(鷲座(わしくら)、楯座(たてくら)、石座(いしくら)、大菅谷(おおしがや)、柳沢(やなぎさわ)など)を整備し、木を伐り、溝を除き、障害物を作って道を塞ぎ、蝦夷の要害を取り潰した、と文献にみえる。この時代、出羽(秋田側=政府機関)から陸奥(岩手県=蝦夷)へ通じる道は五道あった。そして、一連の村落連環を形成していたと推察される。

古代五道マップ


  ・鷲座(足倉越え)・・・・五道経路の一番の道であるが幻の道でもある。足倉山(標高1083)の中腹から須川・栗駒に越える道。皆瀬村中ノ台字木橙(きあぶみ)→大俣沢上流8キロ、山の神祠→須川旧有料道路側の山神社までの峰伝い。高遠森の南、?岳(まぐさやま)から峰伝い→栗駒山頂(大日嶽・須川岳・虚空蔵山の総称)。鷲座の名は、鷲が棲んでいた山という意味で、今の足倉山のことである。この足倉山のことを「青岩山」「根杉山」とも呼んだという。このルートは古代山岳信仰の道でもあった。

  ・楯座(善知鳥越え)・・・・横手盆地から陸奥国に出るルート。仙北郡千畑の善知鳥越え(仙道口)のこと。真昼山の南山麓、真坂峠(松坂峠)→兎平(うさぎだいら)→沢内村(岩手県)の松川越えへ出る。仙北中部(払田柵)から岩手県に通じる最短距離でもある。真昼山から沢内へは3つのルートがあり、沢内からは花巻に越えた。沢内川舟→湯ノ沢上流中山峠を越え→花巻の豊沢(古代の遠胆沢)→鉛温泉→台温泉→紫波まで通路があった。

  ・石座(国見峠)・‥・秋田街道とも言われている。岩手県の雫石から生保内、角館への通路。

  ・大菅谷(白木峠)・・・和賀仙人峠を越えて白木峠へ。北上市(黒沢尻)から和賀川を登り山内に出る通路。中世以降に白木峠越えと称された。

  ・柳沢(手倉越え)・・・岩手県胆沢から柏峠(中山峠ともいう。標高1018メートル)を越え、東成瀬村手倉に至る六里(24キロ)の道。手倉から峰伝いに柏峠(首もげ地蔵一狼沢口-まが坂-やせ長根-中野がしら-弘法の祠-一ぱい清水-十里峠-藩境塚-丈の倉(じょのくら)-ひき沼道)を経て→小出川(おいでがわ)→栃川・ツナギ沢沿い(亀の子石-栃川落合-ツナギ沢-マタギ坂)→大胡桃山(標高934メートル)を経て峰伝い→アドレ坂→小胡桃山→下嵐江(オロセ)へ至る道で、現在は仙北街道(せんぼくみち)地元では「秋田街道(あきたみち)」と呼ばれている。藩政時代には増田-田子内-手倉-柏峠-下嵐江-水沢と、罪人を藩外に追放する道でもあった。とにかく牛馬も使うことも困難な険しい道である。

2.栄地区の東山道(推定)

  多賀城から陸奥と出羽に分かれた東山道は、出羽(山形県)尾花沢(玉野)→舟形(避翼=さるはね)→金山(平戈=ひらほこ)→平戈山(一説には前神室山)→秋の宮→横堀→御返事(おっぺし=旧小野村)→宇留院内→稲庭→川連→東福寺→大倉峠を越えて増田(真人)→沢口→亀田→明沢→馬鞍→楢沢→大屋沼→大屋寺内→大屋新町→美佐古(みさご)→婦気大堤→横手(一説には平城)まで推定されている。しかし、横手から出羽柵(秋田城)までは、内陸(雄物川沿い)を通ったものか、日本海側の由利に向かったのかはつきりしない謎の道となっている。駅路としては、玉野・避翼・平戈・横河・雄勝・助河との記述が見える。

①現存する栄地区の東山道

    ※(栄地区東山道調査協力者:河村正市さん、戸田義昭さん)

栄地区の東山道


  楢沢・・・楢沢集落中ほどの共同墓地横の道(高橋清氏所有のりんご畑)の一部、南方向に100メートルくらい。その道を出ると馬鞍方面へ伸びる舗装道路に出るので道なり。 しばらく行くと右手に小さな沼があり、そこを渡った向こう側から馬鞍へ抜ける道がある。通称「医者殿」「稲荷神社」と呼ばれる場所の横辺りに出る道。

  石田坂・・・楢沢集落中ほどから大屋沼へ抜ける道の途中にある坂。

  大屋沼・・・石田坂を下りると大屋沼南端に出る。周遊道路と沼の水際との中間辺りを道が通り、佐渡さん所有地前から沼の中へ道が二つに分かれる。一つは大屋沼入り口の記念碑辺り(嬲沢=なぶりざわ)へ行き、もう一つは山裾から第二取水口の方へ越える「越道(こえどう)」と呼ばれる長谷観音から持田へ行く道である。

  大屋寺内・・・大屋沼からほぼ直線の田んぼ道。寺内集落へ入る小さな橋の位置がずれているだけでほぼ昔のまま。藤原竹治さん宅横の竹林横の道が東山道であり、今は畑や田となっている場所からまっすぐに新町へ行く道があった。

  大屋新町‥・藤原竹治さん竹林の所から「山道の家(やまみちのいえ)」と呼ばれる家へ抜ける(現在、三浦京一さん宅あたり)。そこから美佐古へ至る。

  美砂古・・美佐古から婦気大堤へはほぼ道なり。

  婦気大堤・・・田久保沼の辺り(秋田ふるさと村)には、郷士館(ごうしだて)、館の下という地名があり、赤坂には字名で「大道添(おおみちぞい)・大道向(おおみちむかい)」という地名が残っている。大道は堤から現在の野球場(グリーンスタジアム)のプロムナード、バザール周辺へ至る道で、富ケ沢から郷士館の東西山際を通る道が古くからあった。東山道の名残ではないかと推定される。また、安田には「縄手添」の地名もある。

②その他の道

  西道・・・東山道のほかに村の西の方を通る道があった。それは、醍醐村(上醍醐-金屋-荻の目)-外目-桜沢-新藤-柳田を通って美佐古で東山道と一緒になる道であったという。この道は、新しく開かれた村と村をつなぐ道であり西道と呼ばれていた。

  山内道・・大屋寺内から山内村(虫内、平野沢)へ抜ける峠道があった。現在栄地区にあるお寺(正伝寺、光徳寺、廃寺となった両学寺)は、500年ほど前に岩手県から山内村を経て栄村に来たお寺であり、往来されていたことの証明でもある。寺内の熊ノ沢-風平-天賀森-銭神-平野沢か虫内に降りたものらしい。

  羽州街道・・現在の国道13号とほぼ同じ道筋を辿る。400年ほど前の江戸時代に徳川幕府が江戸(東京)を中心として全国に道路を作らせた。いわゆる参勤交代の道でもあり、一里塚も築かれた。当時は二間(4メートルほど)の広さで松並木があった。羽州街道が出来てからは、東山道は廃れていったと思われる。

・出羽の国の駅

古代出羽駅マップ


  (水道駅路)

最上-村山-野後-避翼-佐芸-飽海-遊佐(山形県側)
紺方-由理-白谷-秋田-秋田城・高清水の岡(秋田県側)

最上駅(もがみえき)山形市 (山方郷(やまがたごう)があったがこれは上山市)
村山駅(むらやまえき)東根市
野後駅(のじりえき)大石田駒寵(こまごめ)
避翼駅(はるはねえき)舟形町(小国川下流)
佐芸駅(さけえき)鮭川村
飽海駅(あくみえき)平田町
遊佐駅(ゆざえき)遊佐町
※○の野後、避翼、佐芸は、馬船兼備の水駅(みずうまや)でもあった。
蚶方駅(きさかた駅)象潟町(観音森から下ってきた東側の潟岸)
由理駅(ゆりえき)本荘市(子吉川に芋川が合流するあたり~芋川沿いに旧大正寺(だいしょうじ)に越える)
白谷駅(しらやえき)雄和町(新波川(あらわがわ)の流入する川港)
秋田駅(あきたえき)秋田市(草生津川で高清水岡の東側に着く)
※○の白谷、秋田は水駅。
※蚶方には駅馬12匹、由理には駅馬12匹、伝馬6匹、白谷には駅馬7匹、伝馬3匹と船5隻。秋田には駅馬10匹が配置されていた。日本全国でも、水駅は出羽にしかなかった。それは最上川と雄物川が縦に流れ駅路の方向と一致していたからと言われている。
※日本海沿いを秋田城に向かう道を「東海道(あずまかいどう・とうかいどう)」、内陸部を秋田城に向かう道を「東山道(あずまのやまみち・とうさんどう)」。

(出羽山道駅路)
避翼駅(さるはねえき)舟形町(小国川下流)
平丈駅(ひらほこえき)金山町(前神室山、役内峠を北に越えた)=推定
横河駅(よこかわえき)雄勝町寺沢
雄勝駅(おがつえき)羽後町足田=推定
助河駅(すけかわえき) 推定=(浅舞の北端字古(こ)しべ。横手。岩見川流域など諸説あり)
※由利からの道だけでは秋田城(国府)が孤立する恐れがあるため、秋田城までの直路を伸ばすため大野東人が大群を率いて雄勝に入ろうとした。平丈(比羅保許山・神室山)の南まで到着しながら春の残雪のため多賀城に戻ったのは天平9年(737)。ゆえに以北は推定東山道。

○秋田の郡郷

(倭名類聚抄より-栄地区関連部分のみ掲載)

  雄勝郡・・・大津郷(高松川以北、湯沢市の辺り)・雄勝郷(羽後町足田から雄物川町大沢辺り)・中村郷(雄勝町、秋の宮大字中村に駅路があった)・余戸郷(稲川町、皆瀬辺り)

  平鹿郡・・・平鹿郷(増田町辺り)・山川郷(横手市、山内辺り。醍醐の一部も含む)・邑知郷(大森町、雄物川町辺り)・大井郷(植田、平鹿町辺り)・余戸郷(横手市黒川余目辺り)

  山本郡・・・山本郷(仙南村、六郷町辺り)・塔甲郷(たこう-大曲市、仙北町辺り)・御船郷(西仙北町、協和町辺り)・鎰刀郷(かぎのたち-角館町辺り)・余戸郷(大曲市、南外辺り。内小友地区に余目(あまるめ)がある)

  ※和名抄に出羽国雄勝「乎加知(おかち)に城あり、これを答合(たこう)という」とある。答合が塔甲であれば、雄勝城は払田の柵と推定される。

  ・宝亀11年(780)雄勝平鹿二郡が賊に占拠され、政府機関である雄勝城と駅家、郡家が破壊された。「そこで改めて郡府を建てた」とある。この新しい雄勝城が払田柵と考えられる。足田の雄勝城としての期間は(築城21年目)短かったと推定される。

  ・横手盆地が文献にあらわれるのは「続日本紀」の雄勝城が築かれた天平宝字3年(759)である。「はじめて出羽の国に雄勝、平鹿二郡を置く」とある。「三代実録」貞観12年(870)、山本郡を平鹿郡から分けて独立させた。それが今の仙北郡なので、当時の平鹿郡は広い範囲だった。元慶4年(880)には、3郡(平鹿、雄勝、山本)を仙北(せんぼく)と称した。和名抄にある山川郷が横手を中心とした土地と推定されている。

  ・「和名抄」平鹿郡に山川、大井、邑知、山本、塔甲、御船、鎰刀、余戸とある。

郷について

  ・「郷」は「郡」の下部組織で、50戸で一郷とされていた。一戸といっても一戸主の下に子・孫・ひ孫までを含めて一戸であった。一戸は約20から30人前後の単位であった。仮に一戸を平均25人とすれば、50戸では1250人となる。余戸(あまるべ)などは単位から余った地域である。黒川に余目(あまるめ)がある。

地名について

  ・間名田(まみょうだ)-境町。名田は平安時代の荘園を構成し土地制度上の単位。名田と名田の間にある名田という意味で間名田。秋田市の明田(みょうでん)も同類。

  ・丁は条に同じ。坪がたてよこ6つ連なる場合、たてを「条」よこを「里」と称したため「条里」という。一条里式田地は、66の306坪からなる方形田地。境町の「小三条」、境町の「八丁」など。

  ・八卦-川ぶちの崖をいうハブカケというアイヌ語からきている。川が下を流れる高い断崖。

  ・栄地区にも「猿田小屋」「八郎小屋」など条里制がうかがえる地名がある。

  ・鬼嵐(おにあらし)-慶長のころ、(1596-1615)由利郡を検地してその厳しさから「備中竿」の異名を取ったという、最上義光(もがみよしあき)の家臣、日野備中が大屋新町に滞留した時、彼が城へ通うに嵐が激しかったので、備中はあまりのことから鬼嵐と罵ったのが地名になったとか。城は大屋館で、鬼嵐の北のほうの山に跡が残っている。慶長8年、日野備中が角間川へ移ってから大屋館を「山館」として守ったという。


↑タイトルの画像は?
掲示板に投稿された「議事堂周辺の大屋梅」、投稿記事【22】、の写真を元に加工されたものです。

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