ふるさと昔っこ(畑則子)
いたち和尚
昔浅舞村の龍泉寺さ名僧と名前の高い住職居であったど。その名前慕って遠ぐの町や村がら講話聞ぎに来るほどであったど。
ある朝坊さんが何時ものように朝のお勤めしてえだばな、大きな鼬っこお寺の縁側さ来て、黙っておしょさんのお経聞いでるど。次の日も、その次の日も、毎日まいにぢ、朝のお勤めの時間になれば鼬っこ来るど。坊さんある日の事鼬っこさ声掛げだど。
『鼬っこ鼬っこ、お前はしゃ畜生ながらも仏の教え慕う、たいした立派な事だ。今度お前生れ変る時は、人間に生まれ変るように仏さまさお願いしてあげるがらな。明日がら二十一日の間、毎日柏の葉っぱこ一枚づづくわえで来えな。』
いわれだ通り鼬っこは、朝のお勤めの時間になれば、青え柏の葉っぱこ一枚づづくわえでくるけど。坊さんはそれさ経文を書えで鼬っこさ渡したど。鼬っこぁ両方の手で拝むようにして、口さくわえで何処かに運んで行ぐけど。そして二十一日経ったば、ピタッと来ねぁぐなったけど。
ある日のごど坊さん、寺の長老さ、
『この間まで来てだ鼬っこ、須弥壇の下で死んでるど思うがら、見できてたもれ。』
長老行ったば、やっぱり坊さんの言う通りだった。須弥壇の下で柏の葉っぱこ二十一枚円座みたいに積んで、その上で鼬っこ死んでらんしけ。和尚はそごさ行って丁寧に弔ってやったど。
それがら二十一日経ったある夜、鼬っこは和尚さまの夢枕さ立って、
『和尚さま、おがげさんで私は蒜野村の喜兵衛の家さ生まれ変るごどでぎだんし。お弟子になりたいがら、迎えにきてたんせ。』
そう言うっけど。次の日長老どご遣ってやったば、蒜野村の喜兵衛の家でまだ、丈夫な跡取り出来だとでたいした喜んでだところだけど。長老、坊さんがら言われだ事伝えだばな、
『あんまりにもひどい事でねが、たどえ菩提所さまの言う事であっても、おら家の孫どごなば渡さえねぁ。』
って、きっぱりど断わったけど。それで次の日、坊さん自分で蒜野村さ行ったど。そして、鼬っこどの因縁を喜兵衛さ詳しぐ話しして聞がせだど。そしてな、
『その赤子にはなにが印っこある筈だがら、調べてたもれ。』
そう言って調べで見だば、胸ど背中さ鼬の毛っこ生えてらけど。喜兵衛はな、
『たどえ和尚さまが云う通りであったにしても、大事なおら家の跡取りだんし、ましてこんなにに丈夫だ男の子、おらお寺の小僧でなばあげられねぁんし。』
そう言ったど。そごで住職ぁ、思い切って言ったど。
『喜兵衛殿、お前がそれほどまでに言うのであれば、可哀相な事だども、このわらしは明日にでも、死んでしまうべ。そうして鼬の魂は次の家さ生まれ変る。』
『それなばいくらなんでも恐ろしい事でねぁんしか和尚さま、死ぬなんて。そたなごどぁ可哀相な。』
とうとうお寺さんさおあげするって、言ったけど。んだども、急に引き取ったたて、喜兵衛家族があまりに可哀相だど思って、五つになるまで喜兵衛の家で、お寺がら養育費だして育でらせだど。
そうして五つになってがら寺さ引き取ったば、なんとも頭の良いわらしっこでんしょ、まんじお寺さ来る人来る人に、
『この人だば、和尚の方丈さまより立派になるなでねぎゃ。』
って、皆に褒められで可愛がられだんしど。
やがで、この坊やが象潟の蚶満寺さ迎えられで、そごで晩年まで多ぐの立派な和尚さんを育でで世に送りだしたそうだんしども、晩年まで胸ど背中さ鼬の毛っこあったので、鼬和尚さまって、人々がら慕われだんしど。トッピンパラリノプ。
「象潟や 雨に西施が合歓の花」・・・芭蕉が象潟の蚶満寺でこういう句を残しております。
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