ふるさと昔っこ(畑則子)
畑則子さんは、JRこまち開通を祝って行なわれた、首都圏在住秋田県人会主催東京秋田まつり「秋田弁世界一大会」に県推薦で出場、優勝した経歴をお持ちです。今回はその時の様子を含めて畑さんの自己紹介、昔っこではなく自作のトークですが、心温まる話し口です。
かまくらの夜
・・・・えー秋田弁日本一それから秋田弁世界一大会なんかにも出させていただいて、優勝させてもらって、それがご縁で、前からも昔しっこやってましたが、語りはじめて15年になります。えーこれはんしょ、とにかく心打つ秋田弁、1回7分の持ち時間で語って下さい、という、私を含めて5組6人が出場しました。みんな私のようなトークでなく、昔語りする人もいれば、漫才みだいなのやる人もいれば、男鹿のなまはげの人は、なまはげの体験を話したり、それぞれでしたけれども、この日が2月8日だったので、私は是非とも小町が開通したら、東京の皆さんに横手のかまくら見に来ていただきたくて、かまくらの夜という話し、自分でトークを考えてそれをやったんです。全部やるど7分かがるので、ね、先っちょの方だげ一寸やってみます。皆さんもかまくら思い出して下さい。
かまくらの頃になれば、横手だば雪も大人しっぐ降ふるんしおなー。ふあらふあらっど真綿みでゃな雪っこかまぐらの上さもコモーっと積もれば、横手さも他所がら沢山のお客さん達おざるんした。「お城山はどっち?」なんて道訊がれるごどもあるんし。「あやーお城山だんしぎゃ、あのーんしよ、四日町通って蛇の先橋渡れば右側の方さお城見るんしでゃ。」 「あやー、あのんしよ、蛇の先橋渡る時どーっどっど渡らなゃで川原覗込で見でたんしぇ。何百っていうミニかまぐらさ蝋燭っこ灯ってまんず綺麗だんしがらな。」 「あのんしゃ、橋っこ渡ったらすぐ右の方さ曲がってたんしぇな。北小学校の坂っこの所さもかまぐら拵えで子供達遊んでるがら寄って遊んでてたんしぇ。」 「かまぐらさ入ってたんしぇ。甘酒飲でたんしぇ。」 「頬っぺたこ真っ赤にした子供達、蜜柑こ剥いだり餅っこあぶったりして遊んでるがら、入って遊んでてたんしぇ。」 かまぐらの夜、横手の人達ゃ、あーもー直ぐ春だなー、って体で感じるし、他所がらおざった人達ゃ、かまぐらの中さ入った時の様だホコーっとした温もりっこ抱いで一晩眠るのだんし。
一夜明ければ梵天だんし。というごどで梵天歌なんど披露したんですが、まだ本調子の声になってないので、民謡の会の幹事でなぐ民話の会の幹事なので、歌っこはまだ後で唄わせていただきます。こういうことであの秋田弁世界一大会出ました。私の恩師に皆さんも習った人がいるがもしれません伊藤武三先生という方がいらっしゃいます。覚えでおる方一寸手こ上げでみてたんしぇ、あらー先生なんぼが喜ぶだが、ありがとうございます。この先生に、「則子、秋田弁大事にしなゃばでげねよ、秋田弁を穏やかに語れるっていうごどはよ、平和の証だど。」 「あやー、なしてぎゃ先生。」 あのしゃ、そろそろ戦争のにおいがきな臭ぐなってきた昭和のはじめごろ、秋田弁使うなってお触れが出だんしど。なんしてだど思うぎゃ皆さん。それは全国各地がら兵隊さん集めなゃばねんしべ、戦争の準備のため。その時、鹿児島弁なの、あの新潟弁なの、千葉弁なの、秋田弁なの、あちゃこちゃの人達ずらーっと3千人も集まってねぇ、もしかして隊長さんが秋田の人だとしたら、なんとなるど思う皆さん。「どっどーど進めー」なんて言ったたて、鉄砲こ担いで進むの秋田県人ばり。「さっさと突撃ー」なんて言ったたて、なにのごどが分らないがら、やっぱりその言語の統一が必要であった。「だから今こうやって秋田弁おだやかに使えるってごど大事にしれな。」私はこの先生の言葉をほんとに大事に思ってこれからも昔っこの中で秋田弁を使かいながら残していきたいなー、という風に思っております。
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